昭和50年12月16日 報徳祭
                              中村良一


おかげを持ちまして、無事に報徳祭を奉仕、終わらせていただきました。報徳祭、徳に報いるというお祭りでございますが、お祭りが、このようにして、奉仕が出来たと。このお祭りをさせていただいたから、それで、まぁ徳に報いたということにはならんのでございます。どこまでも、徳に報いるということは、やはり、今日の主賓でありますところの、金光四神貫之の君の神様、または、生神金光大神、三代生神金光大神、金光摂胤の君の、御二柱の御恩徳に、私共が応えるという事でございますから、ね。言うなら、四神様に、三代金光様に喜んでいただくということになった時、初めて、音に報いると言うことになると思うのでございます。なかなか、歯がゆい思いばかりをさせて、喜んで頂くという事は、まだ、ほど遠いのでございますけれども、焦点は、そこに置いてある。そして、一歩でも、それに近付かせていただくという精進をさせて頂いておる。もう共々に、その精進をさせて頂かねばならぬ。まぁ、そこのところを、今日は、少し聞いていただこうと思います。
なんと申しましても、やはり、私自身が、おかげを受けなければなりません。あの時に助けていただいた、ね。おかげで今日の、合楽があると。あの時助けていただいた。もう本当に、あの時助けてもらわにゃ良かったというように、私が、それ以来、不幸せになっていくなら、例えば、無い命を助けていただいておっても、「ほんなごて、あん時、死んどったほうがましじゃった」というようなことには、そら、なりかねないのです。だからやはり、私が、おかげを受けなければなりません。やはり、力を受けなければなりません。そのおかげを持って、力を持って、報いるところの働きになってこなければならないと思います。それが、徳に報いるということ。ただ、年々歳々、このように、お祭りがなされていくというだけでは、ね。いわゆる、相すまんことになるのです。
只今、郷ノ浦教会の末永先生が、前講を努めておられましたが、今度こちらへ見えられてから、今、合楽の(?)とでも申しましょうか。そういう一つの動きというものを、昨夜から触れられて、偉い感動なさっておられます。というのは、先日から、ハガキが参りました。アンケートです。ね。今の教団に、何が一番欠けておるか。先生の忌憚ないところを書いてご返事を下さいと言うのでございました。まぁ、一言、二言じゃないようです。ね。金光教の信心が、ね。百十年余りに渡って続けられてまいりました。その信心が、教祖様、そして二代様、三代様と受け継ぎに継がれて、今日の金光教があるのでございますけれども、最近の金光教では、人が助からなくなって来た。その証拠に増えない。御取次ぎ成就信心生活運動という運動が展開されるようになって、二十六年になる。この、御取次ぎ成就するという事。その事が、ね。世界中に、この運動を広げて行かなければならんというような事から、この運動が起こったのでございましょうけれども、ね。広がるどころか、かえってジリ貧の感じである。そこで、今年辺りは、その事に、教団を挙げて、その事の、いうならば、対処策と申しましょうか。来年の五月ですか、六月ですかを期して、金光教の大変革、もう大革命があると言われております。様々な角度から、より本当の、ね。このような素晴らしい教祖をいただき、このような素晴らしい教えを持った金光教が、ね。人が助からなくなったり、ね。かえって、繁盛していないということでは、神様に対して相すまん。ね。様々な、いうなら、層の方達から、色々と、みんなの考えを聞こう、纏めようと。そして、新たな運動の芯にして行こうと言うのでございましょう。
御理解の中に、おごりがましい事をすな、ね。道は細うても、長う続かなければ繁盛ではない。道に草を生やすような事をすな、という様な御理解がございます。段々、大きかった道が、段々小さくなってきたということは、そのまま、道に草を生やすような結果になった。その原因を私は、教団全体が、何とはなしに、おごりがましいムードが出来てきたからではなかろうかと思うのです。おごりがましいという、という事は、ね。なかなか、金光教の信心は、実意丁寧神信心と言われますから、もう本当に、実意丁寧、ね。そらもう本当に、姿勢と申しますか。地を低うして、ね。もう一切が有難い。はぁ、おかげを頂きまして有難うございますと言うておりますから、別に、おごりがましいような様子は見えませんけれども、ね。道に草を生やすようなことになり、道が細うなっておるという事実をふんまえて考えて見る時に、やはり、おごりがましいことになっておるのだろうと思い。どこが、そういう事になってきたかというと、私は、あまりにも、金光教が上品になってきたからだと思います。金光教は、学者に弱いと言われております。それは、知識を豊富に持った人達が、金光教の信心を聞きますと、なるほどいい信心だ、立派な信心だという風に、誰でも申します。可笑しいなぁと言うところがない。勿論、天地の道理に即応した信心ですし。確かに教えにも、一点の非の打ち所がないほどしに素晴らしい。金光大神の世界というのは、実に、おおらかで、ね。広々とした信心であります。金光大神の世界に住まわせていただいたら、ね。あれがいけない、これではならんという事がない。一切がおかげであると言う、ね。金光様のご信心をすれば、生臭きは取っちゃならない、牛肉を食べてはならない、ね。または、お酒を飲んではいけないというような、いうならば、まぁ、キリストの世界と言いましょうか、ね。または、お釈迦様の世界と申しましょうか。そういう世界には、そういうことでは罪になる。そういうことでは罰を受けるというような事があるのです。
今日の祓い詞を、皆さん聞いていただいて、今までは、罪汚れのあらもうばという言葉が出てきますけれども。金光教には、罪汚れ等というものは無いのだと、私は思うたから、あそこを、わざわざ、書き直して貰うて、お粗末御無礼どものあらもうばと、書き直して貰うた。これが、金光教なんだ。金光教には、お粗末とか、御無礼とか無い。あぁ、罪汚れはない。そして、あぁしてはいけない、こうしてはならんという事も、勿論無い。というほどに、まぁ、素晴らしい金光大神の世界に、私共が住んでおる。だから、その世界に住んでおるというだけでは、おかげではない。ね。その金光大神の、いわば、頂いておられる信心が、私共の上にも、頂けれるということ。いうならば、あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになると、本当の信者じゃと教えられるのでございますから、ね。過去においての、一切のことが、はぁ、あれもおかげであったと、先ずは分からなければいけません。例えて申しますなら、私共の信心は、もう、おぎゃぁと生まれたときからの信心ですから、生まれて六十日ぶりに、火の海の中にあった。提灯を、まだ電気が無い自分ですから、つけて、私を添い寝をしておった母が、そのまま、昼の疲れで眠ってしまった。そこに提灯が倒れた。それが、蚊帳に付いた。その提灯がはじいて、そして、私の、まぁだ生まれて六十日ぶりの、赤子の顔に、この、ここにこう筋があるのは、提灯の骨のあとだという事です。もう、それこそ、二目と見られないような状態に、まぁ、ならせて頂いたわけです。けれども、本当にですね、私は、もし私がね、こういう事が、傷を受けなくて、大体、私はこう、林長次郎形ですもんね。大体タイプが、あっははは、ね。それがあーた、本当、林長次郎んごとしてから、あーた、山田五十鈴のごたる、綺麗な嫁さんどん貰うとるなら、絶対、今日の合楽は生まれとらんです。はっははっは、今の奥さんじゃったからこそ、来てくれておるし、今の奥さんだったからこそ、私の修行中に付いてきてくれたんです。ね。ですからね、もう、一事が万事そうです。過去の、そういう頂き方のところに、一切の過去が生きてくる。それを、あれもおかげであったと分かるという事であります。私共の過去にはね、決して、無駄なことという事は無いのだけれども、お互いの過去には、あまりにも無駄があり過ぎる。あん時に、あぁいう事で無かったならば、あん時にはと、例えば、戦争にどん、負けてなかったら、もっとましなと言う事を言うておったんではいけません。やはり、敗戦、負けたおかげで今日があるというようになって参りますときに、敗戦、その事も、生きてくるわけでございます。金光教の信心とは、一切を生かす事です、ね。だから、過去の一切が、生きてくるのです。ですから、今日只今、ふんまえておる、よしそこに難儀があってもです。それは、難儀ではないことが分かります。ね。これもおかげである、ね。だから、過去の事がおかげであるということと同時に、今日只今持っておる、お互いの難儀も、ちょっとこういう難儀なことは、もう困ったことだ、何とかここから脱却しなければならない。ここから一つ、助けてもらわにゃならんと言うておりますけれども。それは、決してお粗末にすることじゃない。その事自体を、先ず、拝まして貰う、拝んでいただくという事が、いわゆる、合楽で、成り行きを大切にするとか、一切のことに、御の字をつけて、御事柄として受けるんだという事。ここが出来た時に、初めて、本当の信者じゃと言うことになるのです
。金光大神の世界というのは、そのようにね。一切がおかげになり、一切がおかげであると分からせていただく世界に住むことが、金光大神の世界であります。金光様のご信心を頂いておっても、不平があり、不足があり、現在の難儀を、やはり難儀と感じておるような事。それはね、痛いもありゃ、痒いもあります。
私共は、この十月の御大祭から、ずっと風邪を引きっぱなし。もう、常習風邪引きという。教祖様が、奥様に向かって、神のくらいは頂いたけれども、家内、お前は、ね。常習風邪引きと申すと仰っておられます。まぁ、私のような、私が、あんまり、えばりよったからじゃろうと思う。ね。あの、五つの願いをするようになって、第一番がね、体の丈夫のことを願う。本気で願わして貰う、ね。もうそれ以来、あれほど、私が風邪を引きよったのが、もう風邪も引かんようになったでしょうが。神様が聞いて下さる印なんだと言うて、本当に風邪引かなかった。ところがあの、大祭の前後から、風邪を引きましてね。よくなったかと思うと、またおてかえる。よくなったかと思うた、またおてかえるというようなね、事です。もう、今日は朝から、水鼻が出て、水鼻が出て仕様がない。そこで神様にお願いをした。もう、せめて、お祭事を奉仕させていただく間だけぐらいは、どうぞ、おかげを頂きますようにと、ね。祭典中に鼻をかむようなことがあっちゃ、神様に対して相すまぬと、思うておる所へ、前のほうに座っておる副祭司の、若先生が、ぐゎっち言うちから、鼻をかみよる。(笑い)彼も風邪を引いているわけです。そしてこら、いよいよ、見苦しいことだなと、自分が先ず知らなければいけません。先ず、そういうことは、本当に神様に御無礼になるならば、御無礼になると言う事を知らねばいけません。そこで、願わなければいけません。私も、ここへ出るまでは、もう、それこそ、もうハンカチを、何枚、朝から濡らしたか分からないぐらいに、水鼻が出るんです。ところが、お祭事中は、おかげで、ね。水鼻も出らんなり、鼻もかまんなりにおかげを頂いた。ね。だから、先ずは、自分の、こんな事ではいけないと言う事をです、先ず知って、そして、そうでないように願わなければいけん。願うところに、神様がお聞き届けを下さる。いうなら、風邪は引いておっても、一日たりとも休んだことはない。御用に差し支えたことはない。外にこそ出ませんけれども、やはり、お家の御用は出来ておる。ね。どうぞ、皆さん、本当と言う事を、真実と書いておられます。あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになると、ね。本当の信者じゃと仰せられるのですから、そこに不平があり、不足があり、腹が立ったりする時には、まぁだ、自分が本当なものでない証拠を、そこに見極めなければいけません。ね。そしてです、どうぞ、本当なものにならせて下さい。真の信心を分からせてくださいという願いをさせて貰うて、そこから、次の手掛かりを、足がかりを求めていかなければいけません。不思議です、そのね、願いに立たせていただきますと、とてもとても、出来そうにもなかった事が、よう、ね。出来るんです。
私は、あるときお夢を頂いたことがある。それこそ、岩山が、こう突き立ってるんです。もう、下から見るともう、本当にすごい山なんです。これに登らなければいけないと、誰かが言ってるんです。ね。そこでです、私は、登ろうと思おうて、神様に御祈念をしながら、登らせていただこうと。こっちから、とても、こげなところに登れる筈はないと私は思うんですけれども、ね。とにかく、登らにゃいけんと言われるから、登ろうと腹を決めて、その山のねきまで参りましたら、上から、葛(かずら)が下りてきてる、こう葛がね。それで、その葛につかまえて、こう登りだしたところがね、ちゃんとこう、あしが掛けられる所がある。又登ると手を掛けられる所がある。もう、それこそ、梯子を登るようにして、登れそうにも無かった所を登らせていただいて、頂上に到達したというようなお夢を頂いたことがございます。そして、信心とは、そうだと、教祖の神様が仰るように、ここに参っておる、みんなが生神だと。此方がおかげの受け始めであって、みんなも、このようなおかげが受けられると仰せられるのですから。はぁ、とても私共は、生神様てんなんてんならんでん良かというのでは無くてね。本当にその、生神が、頂点であり、目指しで無からなければいけないという事です。そして、只今、先ず、本当な信者にならせて貰うて、おかげを蒙って行かねばいけません。ね。
先ほど、末永先生がお話しになっておりました。最後のところに、ね。こちらに参りまして、今、合楽で、ね。大祓信行というのがあっておる。その大祓信行に参画させていただいて、もうまだ、ここ十日あまりの事でございますけれども、もう本当に、皆さんがおかげを受けておる。どうして、こういう有難いことを、今まで気が付かなかっただろうか。ね。なるほど、朝晩の御祈念はしておるし、また、場合には、大祓い、五巻も十巻も上げさせていただくような事もあったけれども、これを修行として受けて行ったことがない。ただ、おかげを頂かんならんから拝みよった。今日は、自分の気分がよかけん、大祓いを、五巻も十巻も上げたということであって、条件のある、いうならば、大祓い奏上であった。ね。それをね、心行のために、今、合楽では、表行全廃であります。表行しとったら、弟子の中にでも、今日のお祝詞の中にも申しましたように、二十四人の先生方が出来ました。ここ七年間の間に。有難いですね。今年も、今、若い青年女子の方が、只今、ここで修行中でございます。来年から、また学院に参ります。ね。本当に、神様の手にも足にもなろうというほどしの覚悟をもって、信心をさせて貰う人達がです。一人でも増えていくということは素晴らしい事です。ね。
夕べも、私共、前夜祭が終わって、富久信会があって、こちらへ出てまいりましたら、そこで、一生懸命、マルショウの方たちが五人で大祓いを上げております。毎晩、ここは、ご承知のように、朝から晩まで、御理解を皆さんが、誰かが頂いておりますから、ね。一生懸命、大祓いを、ここで声を上げて上げるという事を、ここでは致しません。そういうような事が、段々、そういう結果になってきたんでしょうけれども、ね。とにかく、話を聞いて助かるのだ。祈念祈祷で助かるのではない。話を聞いて助かるのだ。ね。と言うような御教えもある事でございますから、やはりその、拝むという事がおろそかになる。けれども、教祖様は、拝むというて神前に向かうたら、例え、後ろから槍先で突かれるようなことがあっても、振り向いてはならないぞ。物音が聞こえるようでは、神に一心は届かぬと言われる、厳しいような御教えがございます。ね。なるほど、話を聞く心が開ける、(咳き込まれる)ね。今、いわゆる、金光教で欠けておるもの、そういう生き方で参りますから、なかなか品が良い。金光教は品が良い。ね。下作なか。何か、一心不乱に拝んでいるとを見ると、それは、何か、いかにも間違いのように言うような傾向すらが、現在の教団の中にはあるのです。信心に、拝むことを抜きにしたら。しかも、拝むということは、そのまま神様と交流する事ですから、その手立てを、私は、おろそかにしてはおかげにならないと思う。
ちょうど、十日ばっかり前、何か会合があって、遅う、もう、一時半ぐらいだったでしょうか。秋永先生と、文雄先生が、もう下がって、私のほうへやってまいりました。秋永先生はもう休まれる。文雄先生は、私の足を揉みにやってきた。ちょうど、一時間揉んで、二時半頃まで、足を揉んでもらいながら、やはり、することは信心話である。「私は文雄さん、今日は、創価学会の池田大作という人が書いておる本を、子供達が借ってきとるのを、ちょっと開いてみたところに、こんな素晴らしいことが書いてあったよ」と言うて、お話を致しましたら、文雄先生が、「いや、実はですね」と言うて、また、自分のお得意さんのところの話を致しておりました。ちょうど、呉服屋をやっておりますから、帯の仕立てをなさる方がおられます。まぁ、人間の目から見ると、どんなに考えても、まぁ、七分か八分がたぐらいしか無いという方らしいけれども、ね。この、帯を仕立てるということだけは出来られるという方らしいです。始めに、その方とに、色んなものを頼んでおった頃はもう、それこそ、小屋のような家に住んでおられた。所が、創価学会のご信者の方が、その方に、いわゆる、お導きです、ね。折伏にいかれたわけです。そして、その方に、その方が言われるのに、「○○さん、貴方が、私の言う事を聞いて、お題目を、朝、百遍、夜、百遍上げるなら、十年のうちには、こんな小屋のようなうちに住まうことは要らん、立派なご普請ができますよ」と言うた。ほう、日蓮、その創価学会というのは、お題目を唱えるだけで良いですか。まぁ、根が単純ですから、それに、まぁ、ぱっと引っ掛かった。まぁ、引っ掛かったと言うちゃ悪いですけれどもね。まぁ、その、折伏を受けられたわけです。まぁ、それからというものは、十年後の普請、十年後の普請という思いもありましょうけれども、朝に百回、夜に百回、これを欠かしたことが無い。最近では、梅屋さん、んー、何というですかね、ご本尊様という、ご本尊様の前で、ね。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱えよると、もうとにかく、有難うなって、立ち上がろうごとなかごとなるですよ。そして梅屋さん、あの、建てこそしなかったけれども、こういう勿体ないような立派なお家を、十年後には買わせて頂いておる。おかげで、娘も、息子も信心するようになった。どんなに難しい、急な用件を、例えば、裁縫物を持っていっても、ね。ご本部というでしょうかね、ご本部に参られるときなんかは、絶対、受けられない。会合という時には、絶対、他の仕事はせん。もう徹底してその、まぁ、この創価学会に帰依をされたわけでしょう。私はね、その話を聞かせていただきながらね。その、その日、私が読んでおった、一二頁の、その大作さんという方が、今、創価学会の二代目の会長さんらしいです。の、書いておられておるのと、思い合わせて見て、そして、素晴らしいことだなと思いました。今、合楽で、心行、修行に取り組んでおるというのは、いうならば、創価学会様のおかげだというても良いのです。その話を聞いたところから、私の心に、新たな信心の情熱が湧いてきた。ね。しかもその、会長の初代は、戸田城聖とか言うお方です。いわゆる、不敬罪か何かに問われて、戦時中に、獄窓に繋がれておられる。その獄窓の中から、監獄の中から、自分の十一歳になる、里子に出しておるところの息子さんに手紙を書いておるという一節を読ませていただいた。その手紙に、こういう事が書いてある。ね。「僕の一日中で、一番都合の良い時間は何時頃だろうか」と、「僕の一番都合の良い時間を、お父さんに知らせてくれ」「僕の一番都合の良い時間に、僕もお題目を百回唱えなさい」「お父さんも、ここから、僕がお題目を唱える時間に、お題目を百回唱える」ね。こういう、いうならば、同じ時間に、同じお題目を唱える事によって、親子が交流しない筈はないと、お父さんは信ずる。「良いかね、これは親子同盟だよ」と、結んでありました。私は、そのね、親子同盟というところに、ただ、惹かれました。素晴らしいですね。信念の人という人の言葉て、素晴らしいですよ。私は、創価学会は、あんまり好きまっせんばってからね。好きませんけれども、もう、これには私は打たれた。ね。文雄先生が言うところの、そえこそ、世の中からは、あまりに、一人前としても扱われない人がです。お題目を唱えさせて頂いて、なるほど、始めの間はです、ね。十年後に普請を、十年後には普請をさせて貰うというような、勢い、願いというものであったろうけれども、一年経ち、二年経ちしていっておるうちに、もう、有難うして、有難うして、一時間でも、二時間でも、お題目を唱え続けたい。梅屋さん、あんたもいっちょ、創価学会に入らんかと言うて、お勧めを受けたと言うのです。ね。拝むという事がです、ね。拝むという事がです、ね。そのような、無条件で拝む。無条件でお題目を唱える。無条件で大祓い、それを行と思うて、大祓信行を続けさせていただくなら、ね。もう、それこそもう、ね。五巻、六巻と上げていくうちに、必ず有難くなるでしょう。しかもそれが、十年と続けられたら、もう本当に、われながら、わが心が拝めれるようにも、また、なろうかと思います。
昨日、秋永嘉朗さんたちが、夫婦、親子四人で、こちらに御用のためにやってきておる。この話が起こって、夫婦で、毎晩、大祓い十巻づつを奏上する。あれはね、本当に神様を大事にするということはね。神様が、勢いづいてくださるんです。ね。毎日、お榊の、いわゆる、生き生きとしたお榊をお供えする。拝むときには、それこそ、明々と、おローソクの火が燃えておる。その前に座って、一心不乱に、それも、あれば頼まんならん、これを願わんならんからではなくて、ね。ただ、一心に、それを心行と思うて、大祓いを奏上させていただく。こういう有難いことを、何十年信心しておって、お母さん、どうして気がつかじゃったじゃかねと言うて、お話をしております。おかげでこの頃は、長女が、それに参加してくれるようになり、長男が、また一緒に、参加してくれるようになりました。親子四人で信行する。こちらに向かって、自動車で来る場合も、お父さんは、運転ですから出来ませんから、横に乗っておる家内は、一生懸命、大祓いを奏上させていただいて、ふっとこう、目を開けたところが、前のほうに通っておるトラックがね、なんと、金光隆盛さんと言う方のトラックであった。金光隆盛と書いてあった。ちょっと、お父さん見てごらんなさい。もう、こげんも間違いの無い。今、私どもが、おすがりして願っておる、ね。もう、本当に、神様、金光教の隆盛、ごひれいとでも言おうか、ね。今、金光教団で欠けておるというなら、こういう隆盛になると言うことの、信心修行をおろそかにしておる様なことがありはせんだろうか。人から笑われてはならない。人を低級視してはならないと言うように、あまりにも上品になり過ぎて、高く止まりすぎたという感がございます。そこを、私は、ね。高く止まっておるということは、やはり、慢心が出ておるのでございます。金光教ちゃ品が良い。しかも、そっげな、下作か拝み方だんせん、と、言うのじゃない。ね。金光教にもね、やはり、拝むという事がなされなきゃならん。しかも、無条件で、神様との交流を楽しませてもらう。自分の心に、喜びが湧いてくることを楽しみにさせて貰う。しかも、それが、行のように、毎日毎日、繰り返されるというところにです、ね。本当に、こういう有難いことを、どうしてしなかっただろうかというのです。
この、私がお話は、十日前にさせていただいた時に、今、久富先生が、朝の御祈念に、報徳祭の事もあるし、冬の信行、寒中修行まで、朝参りを続けようと言うので、もう、七十幾つになるお爺さんが、ね。もう、昼出てくりゃいいのだけれども、やはり、朝の四時から起きって、朝の御祈念に、今、そういう修行を始めておられる。たまたま、お参りをしてきた、その朝、今の御理解であった。帰ってから、ここへ通うてくる、十二時ごろ、ここに来られますから、十一時頃、まぁ、十時から十一時ぐらいの間でしょう。ちょうど、一時間を御神前に座って、信行、大祓信行を始めさせていただいた。家内にも話し合って、家内も後ろから、つけてくるようになりました。そして、早速、手紙を書きました。東京におります、弘道先生が、今東京におります。で、弘道のところに手紙を出して、今、合楽では、こういうことが言われておるから、ひとつ、親子同盟をしようではないか。お前も暇な時間に大祓い奏上の修行をしなさい。お父さんもお母さんも、一時から、何時の間、こうやって信行をさせて頂いておるからと、もう早速、その場で、家にその、東京におる息子に、いわゆる、親子同盟を誓わせる事にしたのです。ね。
先日、北野の秋山さんが、お届けをしておられました。この信行が始まって、一生懸命、御神前に座って御祈念。もう御祈念と言うよりも、やっぱ、行です。さぁ、今から行に移るぞと言うので、一生懸命大祓い。ところが、その日に限って、三巻上げてくる、四巻、五感と上げて行くけれども、何か、空々しいその、大祓いで、有難くなれない。こんなこっじゃないがと思うて、また、大祓いを続けさせて頂いておるときに、ふっと自分の心の中に感じた事なのでございます。それは、これは親先生が、こういう修行をせよと仰るからと思うた。思うた途端に、腹の底から湧いてくるものがあったと言うのです。後の五巻は、もう涙にくれながら奏上させていただいたと言うております。この辺のところが素晴らしいね。親先生が、そうせよと仰ったから、言うなら、泣く泣くでもしておるというところにです。ね。私は、神様の感動が起こったのではないかと思うです。ね。いわゆる、神様が、秋山さんの心の中に、躍動を始めなさったんじゃないでしょうか。そこに、信心の、それこそ、頂くものでなからなければ分からない、信心の喜びがそこにあるわけでございます。ね。以来、私が、もう、毎朝、御理解の時に、この事を聞いてもらわないはずは無いくらいにお話を致します。
先日も、十三日会の日に、親教会の御大祭を頂いて、みんな帰ってから、みんなが待ち受けておられましたから、十三日会に望ませてもらいました。まぁ、色々と、有難い研修がなされました、その時に、六七十名ぐらいの人が集まっておりました。それで、最後のところで、今の話をした後に、この信行を実行しておる人は手を上げてみて下さいと言うたら、ね。日参をしておるほどしの人は、みんな手を上げた。私は嬉しくなった。ね。それこそ、無条件で、神様に打ち向かう。
先日から、神様に頂きますことの中にですね、「時は金なりと言うけれども、時はは徳なり」と頂きました。時は金なり、それこそ、ひと時を惜しんで、一生懸命働いたら、やはり、それは金になるという訳でございましょう。だから、時は徳なりでありますから、ね。徳を受ける事のために、その時間を使えと言うのです。ね。徳を受けるという事は、私はもう、無条件の御用。無条件に神様に向かうということ。いわゆる、今、なされておるところの御祈念信行ということなどは、もう、頼まんならんからではなくて、それを、信行行と思うて、神様へ向かうのですから、それが、よし一時間かかりましても、その一時間が、そのまま、ね。徳になることだろうと思います。その証拠には、やはり、喜びが頂けておる。その喜びが、積り積って、私は、信心の徳ということになってくると思います。ね。
おごりがましいことすな、ね。道に草を生やすようなことでは、細うても、踏み広げて通る道でなからなければ繁盛ではないぞと。道に草を生やすようなことをすな。慢心が出るとおかげを落とすぞと言われる、私は、この御理解をです。今の教団が、ね。一番とは言えないかも知れませんけれども、ね。こういう傾向の信心が、ね。いわば、無条件に拝むといったような信行が欠けておるのではなかろうか。神様と交流する一時を、楽しませてもらうというような信行が欠けておるのではなかろうか。金光様のご信心をしたり、頂いておれば、朝も拝む、夜も御祈念も致しましょう。けれども、それは、ただ、お礼を言わんなん、お詫びをせんならん、お願いをせんならんという内容である。そういう、何にもない、ただ、神様と交流することのためにです、ね。その信行が続けられると言うのでございますから、ね。いよいよ、有難うならせて頂けれる。その、有難い心をもって、願うのですから、神様に通じる。その有難いと言う心で、お詫びをするのですから、神様が聞いて下さる。その有難いと思う心で、過去を思い、現在を思う時にです。ほんなこて、考えてみると、今までは、おかげとも思えなかったけれども、あの事がおかげであったと、そろそろ本当の信者になることが出来るのです。有難いと言う心で、今の難儀を思うときに、はぁ、これも、ね。過去の全てが、おかげなら、今日頂いておる、この難儀も、ね。何日か、何年かの先になったら、これもおかげにと思えるようになるのであろうから、やはり、それもまたおかげであると感じられる。それは、心に喜びが湧いてこなければ、喜びがなからなければ有難いとは思われない。何時も、不平、不足が、ね。心の中にたまっておるというものが、日々、そういう有難い心にならせて頂く稽古をさせて頂いて、しかも行のように、ね。続きぬかれていくならば、ね。宅の神様が力を受けられる。こら、最近、特に激しいんですけれども、宅の神様の前に、大変、おいさみが多くなった事ですね。神様がもう、いきり立ってござる。生き生きと、いわば、働きかけておられるという事が分かります。ね。皆さん、まぁだ、この事を知っておられなかった。この事が、まぁだ、効いておられなかった方は、早速、今晩からでもね、この信行を始められたら有難いですね。ね。そしてです、本当に、いわゆる、無条件の神様へ打ち向かうという事が、いかにお徳を受けていく道か。如何に、私自身が助かる道かという事を分からせていただかなければなりません。その上に、日々、頂かせていただくところの御教えによって、心を、いよいよ開かせてもらう。ね。いよいよ、本当な事が分かってくる。そして、本当な道に出らせて貰う。あらゆる、いわば、角度からです。今の金光教は、立ち直り、立ち上がりを目指さなければいけない時だと思う。先ずは、合楽教会から、そういう信心をです、ね。一つ、打って一丸となって、ね。それこそ、いわがねの力にもならせてもらう、ね。沢山な人が、ただ、めいめいの事を願うために、合楽に集まっているというのではなくて、様々な願いはあります。ありますけども、この事だけは、ね。大祓信行の時だけは、親先生の願いと思いと一つになって、ね。神様に打ち向かうというようなおかげを頂いたなら、いよいよ、合楽教会大発展は間違いない。合楽教会大発展が、そのまま、教団の大発展に繋がることだろう。いわゆる、わが心を、言うなら、世界の隅々にまでも、ね。広げて行こうというおかげをいただかせていただく信心理想に向かって、お互いが邁進しなければならない。先ずは、私自身が、ひとつ、有難くなる手立て、有難くなる稽古をさせて貰う。ね。そこに、初めてです、ね。あのときに助けていただいたおかげで、おかげを頂きまして、ね。今日の合楽がございます。今日の大坪がございますと、お礼が申し上げられる。そこから、次の示現活動に移らせていただいて、初めて、ね。金光大神様、四神様、三代金光様がお喜びくださると思うです。そういう働きが出来て、初めて、恩返しが出来るという事になるのではないでしょうか。どうぞ、おかげを頂かれますように。